旧日ノ出町三丁目 現グリーン大通り周辺


 昭和初期まで、池袋駅東口から有楽町線東池袋駅の辺りには小さな丘のある雑木林があり、地元の人たちは“根津山”と呼んでいました。現在の池袋駅から護国寺方面へ向かうグリーン大通り(有楽町線東池袋駅手前まで)の両側にあたります。
 この一帯が森も含めて“根津山”と呼ばれるようになったのは、明治になり実業家・根津嘉一郎(1860-1940)の所有地になってからでした。それまでは長く中西公拝領の地であったため“中西の森”と呼ばれていたそうです。
 根津山の森が分断されたのは、昭和14(1939)年の市電池袋線[池袋-護国寺]開通の時ですが、両側の森はしばらくそのまま残ります。昭和20(1945)年の豊島区城北大空襲の時には多くの人たちがこの森に避難し、空襲犠牲者たちの仮埋葬地ともなりました。
 戦後間もなく復興と共にこの一帯が売却されると、丘は切り崩され樹木は伐採されて、瞬く間に大きく変貌してゆきました。東西500m、南北300m 程もあった根津山の森が現在まで残されていたら、池袋の東側は今とはまったく違った街になっていたことでしょう。


根津山:明治末頃、中西の森一帯を実業家で有名な根津嘉一郎(東武鉄道、富国徴兵保険会社経営)が買収してついた呼び名。森の中には小さな丘があり、北側には水窪川が東へと流れていた。昭和12(1937)年9月[池袋−護国寺]間の新設道路開通で森は分断。二年後には市電が開通した。森の南は道を隔てて本立寺の墓地に面していた。現在“根津山の小さな丘”があった辺りには豊島岡女子学園がある。

※根津嘉一郎/安政7(1860)年生まれ。38歳で山梨から上京、株で成功し明治38年に東武鉄道社長、衆議院議員などを勤める。根津山を一坪2円50銭で所有。高田町(当時の根津山とその周辺地域)も根津山譲渡を希望するが財政上の理由で断念したという(「東京風土記・北」)。
※豊島岡女子学園
/明治25年5月1日 河村常(かわむらつね)が牛込区下宮比町に設立した女子裁縫専門学校がはじまり。明治31(1898)
校舎を牛込区新小川町に移転拡張、明治37(1904)年 東京家政女学校と改称。大正13(1924)年4月 牛込区弁天町に牛込高等女学校を併設するが、戦火のため牛込の校舎は全焼。昭和23(1948)年4月 現在地に移転復興、豊島岡女子学園と校名変更して現在に至る。

中西の森:古くは旗本三千石中西公数代の拝領地で中西の森と呼ばれた。中西公拝領時期については延宝期(1673〜1680年)以前とされる。その後長い間中西公拝領の地であったため、享和2(1802)年に中西公から肥前平戸藩主一千石松浦金三郎へ相対替えとなるが所有の変遷後も長く「中西の森」と呼ばれた。
※根津嘉一郎が所有するまでの所有者の変遷については資料を確認中、後日掲載予定。

池袋駅:当時は木造平屋で灰色の駅舎。明治18(1885)年3月1日 日本鉄道会社線[品川・赤羽]間の信号所として開設。翌年4月1日 日本鉄道豊島線[池袋・田端]間開業に伴い駅に昇格。山手線の前身である日本鉄道豊島線の分岐点として池袋駅が設置された。その後も大正3(1914)年5月1日 東上鉄道(現在の東武東上線)駅、翌(1915)年4月15日 武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)駅を開業。戦後は帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄、東京メトロ)が、昭和29(1954)年1月20日 丸ノ内線駅、昭和49(1974)年10月30日 有楽町線駅を開業。
山手線:明治36(1903)年4月1日 日本鉄道豊島線[池袋−田端]開業。明治39(1906)年11月1日 日本鉄道国有化、明治42(1909)年10月12日 国有鉄道線路名称制定で山手線に。路線名の読みを「やまのてせん」に統一したのは昭和46(1971)年3月7日。
武蔵野電車:大正4(1915)年に開通した武蔵野鉄道[池袋−飯能]を走る列車の呼称、現在の西武線池袋線の前身。前年5月1日には東上鉄道[池袋−田面沢](現在の東武東上線)が開通していた。
菊屋デパート:京浜電気鉄道系列のデパート。昭和15(1940)年 西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が菊屋デパート池袋支店を買収し武蔵野食糧を開設、西武百貨店の前身である武蔵野デパートを創業。西武百貨店と改称したのは昭和24(1949)年 。
四面塔(四面塔尊):辻斬で亡くなった人たちの供養塔。『享保6(1721)年夏、一晩に17人も辻斬に命を奪われる惨劇が起きたため、池袋村講中(こうじゅう:頼母子講の人々)の64人が雑司ケ谷鬼子母神威光山法明寺第二十二世日相上人に供養を願い出て、同年9月に法華経のお題目(南無妙法蓮華経)を刻した石塔を建立した。石塔の右側面には『北方板ばしみち』、左側面には『南方高田雑司ケ谷道』と記されていることから道標も兼ねたことがわかる。現在は池袋駅前公園(明治通りとJR山手線にはさまれた狭い三角地帯)の一角に移設されている。

※四面塔の位置/当初建立されたのは西武百貨店とパルコの間辺り。高田雑司ケ谷と板橋を結ぶ街道と礫川(れきせん、こいしかわ)と長崎村を結ぶ街道とが交差する四ツ辻にあたる。付近は普段でも追い剥ぎや辻斬が出没する薄暗い雑木林だった。池袋駅に東上鉄道や武蔵野鉄道が開業するため駅前に移動、昭和31(1956)年 駅前開発のため池袋駅前公園内に移され現在に至る。

市電:昭和14(1939)年4月1日、市電池袋線[池袋−護国寺]が開通。昭和12年に開戦した日中戦争によるガソリン払底が円タクや民間バス運行に打撃を与え市電の乗客が急増、区の市電延長要請に応えた開通だった。戦前昭和18年7月に、東京都制施行により東京市電気局から東京都交通局に改称され「都電」に。都電全41系統のうちこの池袋からの路線は第17系統で数寄屋橋まで開通したが、昭和43(1968)年3月31日に区間短縮、翌年10月26日に廃止。現在残っている路面電車は都電荒川線のみ。

※都電荒川線/現存する都内唯一の路面電車で、[三ノ輪−早稲田](沿線12.2km、30駅)を走る。上記の絵地図下部の範囲外に路線がある。王子電気軌道(株)が明治44(1911)年8月に王子電車[飛鳥山−大塚](大塚線)を開業し、「王子電車」「王電」と親しまれた。少しづつ区間をのばし、昭和7(1932)年には現在の荒川線の基線となる[三ノ輪−赤羽](後の都電第27系統)、[荒川車庫前−早稲田](後の都電第32系統)が完成。昭和47年11月12日になり、都電第27系統[三ノ輪−赤羽]が[三ノ輪−王子駅]に短縮、昭和49(1974)年10月1日には都電第32系統と統合し荒川線が誕生した。
※「王子電車」「王電」/市電、都電への変遷。昭和17(1942)年2月1日、陸上交通事業調整法により王子電気軌道(株)を含む民営8社の軌道とバス路線が統合され東京市に譲渡され市電に。翌年7月1日には東京都制施行により東京市電気局が東京都交通局に改称され都電となる。その後多くが廃止される中、統合を経て都営荒川線として残った。荒川線の前身を知る年配者は、今も「王子電車」「王電」と呼ぶ。

平和館:映画館。大正後期にはすでにあった。他に武蔵野館があったが場所は不明。
日ノ出町三丁目:根津山の中央位置。このあたりは明治5年から雑司ヶ谷旭出と呼ばれていた。そこから名付けられたといわれる日出町は、昭和7年〜41年の町名、現在の南池袋二丁目にあたる。平成13(2001)年3月31日まで区立日出小学校としてその名が残っていた。
本立寺:元和4(1618)年創立、文政11(1828)年に法明寺の末寺となるが、現在の本寺は旧身延山久遠寺昭和20(1945)年の戦災で全焼。戦後の区画整理に伴い現在の南池袋2-20-37に移転。【清慶山本立寺】日蓮宗
妙典寺:元和2(1616)年市ヶ谷南寺町徳川家祈願所として妙典寺を建立。寛永11(1634)年江戸城増築の際市ヶ谷薬王寺前町に移転。その後、数度の焼失再建を経て明治41(1908)年池袋蟹窪に移転し妙行寺と公称、明治44(1911)年妙典寺と改称。昭和16(1941)年三派合同により日蓮宗となる。戦災を被り、戦後の区画整理に伴い現在の南池袋2-20-10に移転。【蓮華山妙典寺】日蓮宗(旧本門宗)
乗在寺(現・常在寺):慶長10(1605)年下谷村上野鴬谷に常在院と称し創立。元和5(1619)年下谷区下谷一丁目に移転、大正7(1918)年に現在の三越デパート付近に移転。戦災を被り、戦後の区画整理に伴い現在の南池袋2-20-7に移転。【霊鷲山常在寺】日蓮正宗
仙行寺:創立年不詳。明治41(1908)年に小石川指ケ谷町3善行院に隣接の仙応院を合併し、仙行寺と改称。明治45(1912)年道路改修のため池袋蟹窪に移転。昭和20(1945)年の戦災で焼失。戦後の区画整理に伴い現在の南池袋2-20-4に移転。【松栄山仙行寺】日蓮宗
東京拘置所(現・サンシャインシティ):巣鴨村の監獄誘致運動の末に、明治28(1895)年石川島監獄が巣鴨村に移転、警視庁監獄巣鴨支署を発足し二年後に巣鴨監獄となる。昭和12(1937)年に市谷刑務所が移転してきて東京拘置所と改称、戦前・戦中は治安維持法で逮捕された政治犯が多く拘留された。戦後の占領下では巣鴨プリズンと呼ばれ、戦犯が収容され極東軍事裁判が課した刑、他の連合国戦争犯罪法廷が課した一連の刑がここで執行された。
昭和46(1971)年小菅に東京拘置所が移転すると、跡地は昭和53(1978)年に超高層ビル・サンシャイン60を中心としたサンシャインシティに生まれ変わる。サンシャインシティ北側の東池袋中央公園には「永久平和を願って」と刻まれた碑があり、裏面の記録により巣鴨プリズン跡とわかる。

※監獄誘致運動/巣鴨村の地域発展のため、明治18(1885)年に監獄誘致運動が始まった。政府が土地を買い上げたのは明治21年。運動開始から移転まで10年。
※石川島監獄/東京拘置所の前身。近代刑(監獄)施設である隅田川河口の石川島に設置された石川島人足寄場から始まる。江戸期に火付盗賊改役「鬼の平蔵」こと長谷川平蔵が創設した。明治3年(1870)年人足寄せ場廃止後も、徒刑場、懲役場、監獄署と改称され存続した。

市電通り(現・グリーン大通り):根津山の中央にできた池袋ー護国寺間を結ぶ通りができたのは昭和12(1937)年9月。市電軌道の施設工事がはじまるまでは子どもが遊んでいられるような静かな通り。市電開通とともに人や車の往来が多く賑やかになった。
寄席・新末広亭:大正中期から戦前まで営業していた寄席。
秋田倉庫:秋田食料の倉庫。現農林省秋田食料事務所とは関係あるのか未確認。城北大空襲で焼ける。被災した人々は飢えをしのぐため焼跡から変形した缶詰や変色した米など持ち出した。戦後再建された。
宇佐美牧場:おおよその所在地は現・南池袋2丁目32番(旧・高田町大字雑司が谷字水原652)。明治中期から戦後間もない頃まで、豊島区には巣鴨・池袋を中心にして延べ60カ所の牧場が点在し、一帯は小規模ながら明治末から大正期には東京を代表する「牛乳生産地」だった。
生晃館:映画館。大正後期にはすでにあった。
高田第四小学校城北大空襲で全焼、わずかに防火壁だけが残る。後に日出小学校に。平成13(2001)年4月1日より雑司谷小・高田小と共に統廃合し、新設・南池袋小学校に。平成16年4月1日より南池袋3-18-12(移転前の千登世橋中、統廃合前の旧雑司が谷中があった)の新校舎に移る。
豊島区城北大空襲:昭和20(1945)年4月13日、豊島区は大規模な空襲に見舞われた。区の消失面積70%、被災3万4千戸、罹災者16万1千661人、死者741人(1983年出版「豊島区史・通史編」による)という大規模な空襲で、多くの被災者が“根津山”と呼ばれた豊かな森に避難した。そして空襲で亡くなった多くの方々が、根津山の一角(現・南池袋公園)には運ばれて山となり、多くがそのまま仮埋葬された。




『駅の東に森があった』は、矢島勝昭氏の画集「二十世紀の情景 池袋・雑司が谷」によります。氏のご了解を得て掲載しているこの絵地図は、城北大空襲被災者追悼と平和を祈る「4.13根津山小さな追悼会」10周年(2005年4月13日)ポストカード用に氏が新たに描きおこし提供したものです。今につながる過去の出来事をぜひ辿ってみてください。
参考資料:矢島勝昭「画集・二十世紀の情景 池袋・雑司が谷」(1999.9.19発行)、豊島区郷土資料館だより「かたりべ」(No.71、77)、豊島区郷土資料館調査報告書第二集「豊島の寺院」(1986.3.30発行)、豊島区郷土資料館・特別展「失われた耕地-豊島の農業」(1987.12.1発行)、豊島区郷土資料館・特別展図録「ミルク色の残像-東京の牧場展」(1990.8.16発行)、豊島区郷土資料館企画展「えきぶくろ〜池袋駅の誕生と街の形成〜」(2004.7.28発行)、東京都交通局「都電60年の生涯」(1971.12.10発行)、つつじ会「都電往来豊島区と荒川線」(1983.12.10初版、1984.8.1二刷、1987.10.1再版発行)、街と暮らし社「江戸・東京歴史の散歩道4 豊島区・北区・板橋区・練馬区」(2002.9.1発行)、東京都豊島区区民部区民課「東京都豊島区 町名の由来」(1987.3.31発行)、矢島勝昭「根津山の一千年」(2005.1.21南池袋小6年へのおはなし資料)、豊島区教育委員会「かがやく豊島」(1998.3月、第6版)
※順不動、発行年は西暦に統一表記。



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