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旧マッケーレブ邸
(雑司が谷旧宣教師館)
豊島区南池袋4-25-1
更新日:08.03.07 

『赤い鳥』コーナー(元教会事務局)

 本館一階の『赤い鳥(児童書)』コーナーには、『赤い鳥』および『金の船』『金の星』の復刻版が設置され、文化遺産ともいえる『赤い鳥』の歴史にいつでも親しむことができます。この宣教師館でマッケーレブが布教活動と共に幼児教育(1928年に幼稚園創設)にも力を注ぎましたが、その時期は『赤い鳥』全盛期とも符合し大変興深く感じられます。
 『赤い鳥』コーナーでは、毎月第一土曜日(午後2時〜3時・参加は無料)に童話の読み聞かせを行っています。小川未明の作品をはじめ『赤い鳥』に掲載されている童話を、地元の小森香子さん(詩人)が読み聞かせてくれるのです。小さな子どもやお母さんたちばかりでなく、年配の方々や散策で訪れる方々も静かに童話の世界に耳を傾けています。

※第二土曜日のこともあります。事前にご確認ください。
赤い鳥(児童書)コーナー1/4赤い鳥(児童書)コーナー2/4赤い鳥(児童書)コーナー3/4赤い鳥(児童書)コーナー4/4
赤い鳥』コーナーは、宣教活動の拠点となる教会事務局として使われました。
教会関係者が出入りしてキリスト教の伝道雑誌『道しるべ』の発行も行われていました。

『赤い鳥』の歴史 ―豊島区は『赤い鳥』ゆかりの地―

 大正デモクラシーとよばれた時代は、子どもを一個の人格ととらえ個性や独自の精神世界に注目しようとした“子ども発見の時代”でした。その時代に、豊島区地域に児童作家・文学者・画家による、子どものための文化運動が誕生します。その先駆的・中心的役割を果たしたのが子どものための文芸雑誌『赤い鳥』です。

 『赤い鳥』は、大正7(1918)年7月、鈴木三重吉(1882〜1936)の自宅・北豊島郡高田村大字巣鴨(現・目白3丁目17番地)で創刊されました。
 三重吉は、これまでの教訓主義的なおとぎ話ではない「こどもたちに芸術として真価のある純麗な童話と童謡を創造する運動を起こしたい」と、森林太郎、泉鏡花、高浜虚子、徳田秋声、島崎藤村、北原白秋、野上臼川、野上弥生子など、当時文壇の主要な作家たち13名の賛同を得て『赤い鳥』を世に送り出しました。こうして始まった児童文化運動は、発刊した誌名から「赤い鳥運動」と呼ばれるようになり、童話・童謡の新時代を築いてきました。

 『赤い鳥』は三重吉の亡くなる昭和11(1936)年6月まで刊行(全巻196册)され、同誌に童話を発表した作家は300人にも及びました。その中から芥川龍之介「蜘蛛の糸」、有島武朗「一房の葡萄」、小川未明「月夜と眼鏡」、新美南吉「ごん狐」、西条八十「かなりや」、北原白秋「からたちの花」など、優れた童話や童謡の数々が生み出されます。童画では、創刊当時から表紙を含めて童画を担当した清水良雄、挿し絵を多く描いた深澤省三がいます。

 当時の池袋・目白・雑司が谷地域には、子どもの自主性や個性を尊重する自由学園が建てられたり、学習院、豊島師範(現・東京学芸大)、立教、成蹊などが次々に設立され、出版社があり、児童文学のふるさとともいえる新たな文化圏がつくられていきました。早稲田文学関係者もたくさん住い、文学や絵画を志す若い人たちにとっては魅力的な地域だったそうです。
 豊島区では、毎年7月に『赤い鳥文学賞』『新美南吉児童文学賞』『赤い鳥挿し絵賞』の授賞式が行われています。


鈴木三重吉
 出身は広島市猿楽町(中区紙屋町)。東京帝国大学英文学科に入学、夏目漱石に絶賛された短編小説『千鳥』(1906)を『ホトドキス』に発表、次いで『山彦』(1907)、『小鳥の巣』(1910)、『桑の実』(1913)、『湖水の女』(1916)を発表し新浪漫派のさきがけとなりますが、長女の誕生を契機として児童文学に転身。大正7(1918)年7月、児童文学雑誌『赤い鳥』を創刊します。
 『赤い鳥』創刊以来、今の目白界隈で何度も転居しますが、大正11〜13年の赤い鳥社・旧居跡には現在千種画廊があり「赤い鳥社・鈴木三重吉旧居跡」の碑が立っています。近くの目白庭園にある数寄屋造りの茶室“赤鳥庵”は、この地で創刊された児童文学雑誌『赤い鳥』にちなんでつけられています。

小川未明
 明治43年には早くも第一童話集『赤い船』を出し、鈴木三重吉の『赤い鳥』創刊時の有力な協力者でした。大正11年には「赤い鳥社」に程近い雑司ヶ谷上り屋敷(現・西池袋2丁目)に住んでいましたが、後に日本女子大裏通りに面した小石川区雑司ヶ谷に引越し「今後を童話に専心する」という童話宣言を行います。小説家から童話作家へ転身し近代日本の児童文学界に最初の芸術的創作童話を確立しました。『赤い鳥』に掲載された童話は純創作・翻訳・伝説の再創造があり、中でも未明は41編もの純創作童話を寄稿しています。

『金の船』『金の星』
 大正7年7月創刊の『赤い鳥』に続き、大正8年11月には斎藤佐次郎の童謡童話雑誌『金の船』が出版されます(後に『金の星』と改題)。その後たくさんの児童文学雑誌が出版されますが、中でも『赤い鳥』の北原白秋と山田耕筰、『金の船』(『金の星』)の野口雨情と本居長世などが童謡の黄金時代を築いたといわれています。

「からたちの花」
山田耕作が幼い頃に巣鴨のからたちの垣根で囲まれた自営館(現・南池袋1-13)で暮らした時の苦労や思い出を白秋に話し、それに白秋が自らの少年時代の思い出を重ねて綴ったものです。その詩に耕作が曲をつけて童謡「からたちの花」(大正14年5月)が誕生しました。

この地域に住んだ『赤い鳥』関係者
北原白秋 関東大震災で被災し三重吉の自宅に疎開してきています。
菊池 寛 雑司ヶ谷(現・雑司が谷1丁目)の自宅で文藝春秋を創刊。『赤い鳥』に10編の童話を掲載しています。
坪田譲治 大正5年に高田村狐塚(現・西池袋2丁目)に新居を構えます。晩年は自宅の蔵書を開放して「びわのみ文庫」を開設、現代版『赤い鳥』として「びわの実学校」を創刊。
深澤省三 挿絵画家、『赤い鳥』の挿画スタッフ。大正11年暮れに目白狐塚(現・西池袋2丁目)に引越してきています。

『赤い鳥文学賞』『新美南吉児童文学賞』『赤い鳥さし絵賞』
 毎年豊島区では『赤い鳥』の歴史を記念し、『赤い鳥』が創刊された7月に優れた児童文学作品を選び、『赤い鳥文学賞(昭和46年創設)』、『新美南吉児童文学賞(昭和57年創設)』、『赤い鳥さし絵賞(昭和6年創設)』の贈呈式を行っています。
【主催:赤い鳥の会、後援:豊島区・愛知県半田市(半田市は新美南吉の出生地)】


参考・引用資料:「おばあちゃんのおはなし会」プログラム、雑司が谷旧宣教師館だより、新選 名著復刻全集 近代文学館-作品解題、「鈴木三重吉赤い鳥の会」



童話童謡雑誌『赤い鳥』1/5童話童謡雑誌『赤い鳥』2/5童話童謡雑誌『赤い鳥』3/5童話童謡雑誌『赤い鳥』4/5童話童謡雑誌『赤い鳥』5/5
童話童謡雑誌『赤い鳥』最終刊
◆復刻版『赤い鳥』
 左から、第一巻第一號(創刊号)、
 第一巻第二號、
第一巻第三號
 表紙:清水良雄
◆復刻版『赤い鳥』
 鈴木三重吉追悼號(第十二巻第三號)
 表紙:清水良雄
◆『金の船』十一月號(創刊号) 
◆『金の船』から改変後に発行された
 『金の星』六月號
童話童謡雑誌『金の船』 童話童謡雑誌『金の星』


『赤い鳥』を語り継ぐ「おばあちゃんのおはなし会」

 本館の『赤い鳥(児童書)』コーナーでは、詩人・小森香子さんが童話の読み聞かせを行っています。静かな古い木造宣教師館の小部屋での豊かな童話朗読のひと時です。

◆毎月第1土曜(※翌1月のみ第二)午後2時〜3時
◆雑司が谷旧宣教師館 児童図書コーナー/参加費無料・直接会場
※おはなしの予定は【年間事業予定】をご参照ください。

 ボランティアで童話の読み聞かせを続ける小森さんは、豊島区日出町で生まれ、雑司ヶ谷墓地を遊び場にして育ちました。ご家族は小川未明と親交があり、幼少から未明の童話に親しみました。小森さんがご自身を語られた記事がありますのでご紹介いたします。

小森香子(こもりきょうこ)

 雑司が谷旧宣教師館には、雑司が谷地域で大正時代に創刊された日本初の童話童謡雑誌『赤い鳥』の復刻版など、当時の優れた児童文学作品が収蔵されている。「気軽に作品に親しんでもらう機会を作りたい」と、4月から童話の読み聞かせを始めた人がいる。詩人の小森香子さんである。

 「もともと雑司が谷で生まれで、雑司ヶ谷墓地を遊び場にして幼児期から少女期まで過したものだから、すごく雑司が谷に愛着があるわけね。で、こういういい場所があって、小川未明さんのゆかりの方もまだご存命であり、母が出入りしていた小川未明さんのお宅のことなど、今は子ども達がテレビゲームやなんかに夢中になっていて、あまり本を読まない時代になってきているだけに、未明が書いていた頃の子ども達に寄せた心というかそんなものを再現できたらと思い始めましたが、いらっしゃる方は大人ばかりで。」(笑)

 屈託のない会話が続く中で、「私は小学校5年生で、11歳にして戦争犯罪人だったんです。今でもそう思っています。」いまだ癒えることのない心の傷を香子さんは打ち明けられた。

 子ども時代はずうっと戦争でした。昭和5年生まれといえばまるっきりの15年戦争の申し子。「サクラ」教科書の世代。六年生で国民学校になった時代です。本が大好き、作文が大好きだった私は、一生懸命にやればやるほど軍国少女となり、毎月書かされる慰問文のチャンピオンになっていました。

 小学校5年生の時、日独伊三国同盟が結ばれた記念に慰問文交換会というのが行われ、文京区青柳小学校から選ばれてイタリアの兵隊さんへ慰問文を書くことに。二重橋の写った大きな絵葉書に清書をし、九段の軍人開館(今の九段開館)で、大きな声で「イタリアの兵隊さんへ……」と朗読し、大使婦人に抱きしめられた。小学生の戦争協力者。この思いが今も拭いきれないのです。

 そんな子ども時代を過した香子さんを救っていたのは、小川未明の童話であり、お母様が読み聞かせてくれた未明とか濱田廣介、坪田譲治の童話であり文学であったという。「そういうものの中から私がもらった人間性というか、まるっきり軍国少女に育てられながら心の片隅に種、植物なら種みたいなものが蒔かれていたと思うのね。それがやっぱり赤い鳥運動や小川未明たちの童話運動の中で生まれてきた文学だったと思うわ。」

 香子さんは詩を書く。2001年からの10年間を、「平和と非暴力の文化を子どもたちに」という国連の呼びかけに、詩作を通して参加していきたいと語る。香子さんの詩作の根底にあるものは、「生命を伝え、子どもたち一人ひとりがその人格を輝かしうる世の中を求めること」である。

 1961年から4年間、プラハに住み、坪田譲治主宰の『びわの実学校』に童話を寄稿し、帰国後、日本の子どもを守る会や詩人会議などで幅広い活動をされてこられた。香子さんのモットーは、「生きるとは愛すること」、それが詩を書いたりしている心の有り様であり、そういうものが少しでも人様に通じればいいなと思ってらっしゃるそうです。香子さんのふるさとに対する思いをうかがった。

 「有為転変があって、また自分の生まれた故郷に戻ってきました。70歳を越しましたけれど、自分の出た青柳小学校を自分の子どもが二人とも卒業しました。雑司が谷旧宣教師館で『昭和の雑司ヶ谷』を語らせていただいたことで、自分が雑司が谷で生まれ育ったんだという思いが強くしました。そうして思い出すのは小川未明の童話であり、戦争の厳しさというものを一応経た上で、一層『赤いろうそくと人魚』あるいは『月とあざらし』など、子どもを失った親の嘆きといういうような童話に深い意味を今更のように感じます。そして、言葉は音声に出してこそ言葉であると思っておりますので、書かれたものを朗読することによって、未明さんの魂をもう一度私を通じて他の人々に感じてもらえたら、との思いでやらせていただいています。小さなともしびでもいいから、ともし続けるという事が大事だろうと思っています。」

 「わがまち雑司が谷」人物探訪(第42号/2003年11月5日発行)
旧宣教師館社会教育指導員 浜地真実子・記


 【東京新聞】平成18年12月07日(木)
「おはなし会」東京新聞'06.12.07


秋の草花 秋の草花

正面玄関の一角





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