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旧マッケーレブ邸
(雑司が谷旧宣教師館)
豊島区南池袋4-25-1
更新日:07.07 31 

【マッケーレブと旧宣教師館の歴史】

1907年(明治40)年、アメリカ人宣教師J.M.マッケーレブが
居宅として建てた雑司が谷旧宣教師館は今年で建築100年を迎えます。
日本における宣教の先駆者マッケーレブの足跡から、
そして雑司が谷の地が開発されて行く様子からもいろいろなことがわかります。
宣教師マッケーレブの活動の歴史、
当館が現在に至るまでの変遷をご紹介いたします。

マッケーレブの肖像画:矢島勝昭(2007年7月)作

ジョン・ムーディ・マッケレブ John Moody McCaleb
(1861.09.25―1953.11.01)
キリストの教会(無楽器派)群の日本における宣教の先駆者。

米国テネシー州ナッシュビル、敬虔なクリスチャンの農家の6人兄弟の末っ子に生まれる。良心的兵役拒否者だった父ジョン・マッケレブは南北戦争の折、友人に誤って射殺される。生後6ヶ月だった彼には父の名“ジョン”が与えられる。

5歳の頃母が再婚(教会指導者で植物学者)。14歳で浸礼(バプテスマ)を受ける。
20歳で母を亡くした後、苦学の末にケンタッキー州レキシントンのカレッジ・オブ・ザ・バイブルに入学(1888年春)、在学中に世界宣教の刺激を受ける。卒業した年の秋(1891年)にデラ・ペントリー(Dolla Dorothy Bentlay)と結婚、伝道生活に入る。

同じ頃、中南米伝道から帰国した同校先輩アズビル師が日本伝道隊員を募集していた。マケーレブ夫妻は同校校長の紹介で面談することになり、日本宣教を決意。
翌1892年4月に日本伝道のために来日。築地外国人居留地に住み、神田・四谷・小石川などで青年のクリスチャン育成に力を尽くす。

夫人の健康と子供たちの教育のため家族を帰国させ、15年住んだ築地の地所を売払い雑司が谷に居住と活動の地を移す(1907年)。

デラ夫人を亡くした2年後、日米開戦まじかの1941年2月に米国領事館より帰国を促される。永住を断念し自宅を売却、10月末に日本に別れを告げる。

帰国後に再婚、ロサンゼルス在住。1943年から同市ペパダイン大学名誉教授として東洋文化を教え、仲間と「良心的兵役拒否者を助ける委員会」を組織するなど85歳の頃まで活発に活動。
心臓病で8年余り病床生活を余儀なくされるが、約400編の詩を遺して92歳で天に召される。



※以下、只今制作中につき、もうしばらくお待ち下さい。
初期の活動
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雑司ヶ谷へ
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雑司ヶ谷学院
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日曜学校と雑司ヶ谷教会
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教会機関誌の創刊
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雑司ヶ谷幼稚園
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住民保存活動
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旧マッケーレブ邸の特徴
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雑司が谷旧宣教師館として
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建築100周年
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文化財として
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現在の活用
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※只今制作中につき、もうしばらくお待ち下さい。

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旧宣教師館を見上げる


マッケーレブの肖像画:矢島勝昭(2007年7月)作
参考資料:『雑司が谷旧宣教師館だより』第39・40合併(2007年7月1日)号、雑司が谷旧宣教師館建物調査報告書(豊島区教育委員会1984年2月 発行)、「『道しるべ』選集シリーズ1・マッケレブ宣教師著作集(第1集)自叙伝」(2005年3月3刷発行)




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