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4・13 根津山小さな追悼会タイトル
更新日:07.10.10 

毎年4月13日に南池袋公園で行われている空襲犠牲者のための小さな追悼会。
終戦50年目に会の前身が発足たのはある新聞記事がきっかけでした。
東京の空襲は東京大空襲だけではありませんでした。
東京初空襲(1942.004.18)から敗戦(1945.08.15)まで
東京だけで94回(「東京被爆記」1971.02.25朝日新聞社刊)もの空襲があったのです。

きっかけになった新聞記事



★以下に記事のテキストを掲載します。

ドットライン
1988年08月18日 朝日新聞・朝刊 

…小さな戦跡からの報告…

池袋・根津山の白骨 繁栄知らず土の中 

公園工事で姿現し塩で清め埋め戻す

 池袋駅東口、西武百貨店の前から護国寺方向に延びるグリーン大通り。銀行や飲食店がひしめくこの一帯には、戦前まで根津山と呼ばれる長さ600メートル、幅300メートルほどの雑木林が広がっていた。

 「戦時中、根津山の一角にこんな地下壕(ごう)がありました」。定年で2年前、NTTを退社した矢島勝昭さん(59)=豊島区南池袋2丁目=が見せてくれたスケッチには、森の中にぽっかりと口を開けた地下壕が2つ描かれている。「杉の丸太で骨組みした上に土が盛られたもので、壕の全長は約30メートル。中は大人が立って歩けるほどの高さでしたね」
 スケッチは矢島さんが昭和42、43年ごろから5年間かけて戦前の池袋界わいを思い出しながら描いたペン画33枚のうちの1枚だ(イラスト:根津山に造られた木組みの地下壕。都電の両側の歩道にも、長さ3メートル、深さ1メートルの防空壕が掘られていた)。

 都内各所が連日のように空襲の猛威にさらされていた昭和20年4月13日。「今日はクリスチャンの欧米人が嫌う13日の金曜日。たぶん空襲はないだろう」。そんな淡い期待も見事に裏切られた。深夜に来襲したB29の大編隊は豊島、荒川、王子を中心に焼い弾の雨を降らせた。池袋駅東口の住民は、火の手に追われて根津山へ、雑司ケ谷霊園へと逃げ込んだ。
 根津山は焼い弾の直撃を免れたものの、B29が去った後、林の冷気と周囲の熱い空気から生まれた竜巻に襲われた。竜巻に飲まれた女性が1町先まで吹き飛ばされ、翌朝亡くなった。
 火の手が収まると、空襲で亡くなった人の仮埋葬地として、遺体が次々と運び込まれた。埋葬作業には、根津山から道路1つ隔てたところにある東京拘置所(当時)の囚人が動員された。
 昭和4年から池袋に住んでいるという会社社長、高村与作さん(85)は、「遺体はトラックに山積みにされて運ばれて来ました。それをレンガ色の囚人服を着た受刑者が穴に埋めて行くんです」。今なお不気味な光景を生々しい記憶として思い出すという。

 東京拘置所は戦後、巣鴨プリズンと名前を変えた。東条元首相らA級戦犯の収容所として巣鴨の地名は一躍脚光をあびるようになった。焼け野原には夜ごと、巣鴨プリズンから流れる物悲しい消灯ラッパの音が響いた。「うらさびしい曲でね。戦犯たちはどんな気持ちで聞いているのかなあと思ったものです」と矢島さん。
 池袋周辺は20年代に行われた戦災土地復興整理で区画が大幅に変更され、根津山の雑木林も姿を消した。仮埋葬の遺体も別の場所に本葬された。その後、根津山の跡地に南池袋公園がつくられたが、49年の公園改修工事の際、コンクリート製の別の地下壕に行き当たった。その近くで、かなりの数にのぼるとみられる白骨が土中から姿をのぞかせていた。が、工事を急ぐあまり塩でお清めをして、そのまま埋め戻した、と当時の工事関係者は証言する。

 やがて巣鴨プリズンも取り壊され、跡地には、戦後の繁栄の象徴ともいえる、日本1の高さを誇るサンシャインビルがそびえ立つ。しかし、夏休みの親子連れが歓声を上げて見下ろす繁華街の地下の片隅には、今なお本葬されなかった白骨が眠ったままでいる。


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