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「遥かなる根津山−戦前・戦中・戦後…根津山は何処へ−」
  絵:矢島勝昭 ★著作権は作者に帰属します。 更新日:09.11.27

城北大空襲から多くの区民を守ってくれた森の話

戦前(明治-昭和初期)戦中1戦中2戦中3戦後(昭和20-61)

絵:樹に登る子どもたち

森にきたりて

さわやかに美しき昼の緑
日没の森の空 黄昏どき

ここにして哀傷ぞあまりに深く
ここにして追憶ぞあまりにいたまし

(以下略)



 詩人・三木露風は、 明治42(1909)年から大正3(1914)年の5年にわたり「根津山」の森に住み、そのイメージをもとに、 冒頭の詩を含む彼の第一詩集『廃園』を発表しました。当時二十歳でした。
 今回、 昭和になって時代に翻弄された「根津山」の森の数奇な歩みを、 絵で追ってみることといたしました。

 平成21年10月 矢島勝昭




根津山の所有変遷に入る前に…
根津山と呼ばれるまでの経緯

延宝年間(1673-81)より前に、雑司ヶ谷村の内に旗本中西氏下屋敷成立(徳川家綱〜綱吉の時代)
※延宝年間以前は、正保1(1644)「正保元年江戸図」に中西主馬下屋敷の記載見られる(家光の時代)
 中西屋敷は享和2年まで代々引継がれ、中西の森と呼ばれるようになった

享保4(1719).01 雑司ヶ谷中西刑部屋敷(成立不明)の東側半分御鷹方役屋敷となる(吉宗の時代)
享和2(1802).02 雑司ヶ谷村の内、中西主水屋敷、相対替で松浦越前守の屋敷となる(家斉の時代)

明治2(1869).04 御鷹部屋・組屋敷約2万坪、開成所植物地に囲い込まれる
明治2(1869).06 雑司ヶ谷松浦家下屋敷、開成所用地となる
明治5(1872).07 鷹部屋・鷹方御用屋敷・修験屋敷・武家地・寺社地等を合併、雑司ヶ谷旭出町とした

明治末期 約3万5千坪の官有地(雑司ヶ谷旭出町)となった中西の森は、東武鉄道社長 根津嘉一郎が
     坪2円50銭で所有。以来、根津山と呼ばれるようになった。




●参考文献
『豊島区史 通史編 1』 豊島区史編纂委員会 編纂・豊島区 発行
『豊島区史 年表編』   豊島区史編纂委員会 編纂・豊島区 発行
『写真で見る豊島区50年のあゆみ』 豊島区企画部広報課 編集・豊島区 発行
『豊島風土記』           豊島区立豊島図書館 編集・豊島区 発行
『群像 豊島の文化人-豊島区ゆかりの文化人とその小伝-』高瀬西帆 編著・サンライズ社発行
詩集『廃園』復刻版  三木露風 著・ほるぷ出版

◆企画・絵 矢島勝昭 ◆展示構成 高尾裕子



戦前(明治-昭和初期)戦中1戦中2戦中3戦後(昭和20-61)



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